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《脳神経科学者 / 行動心理学者
寺田 慧》

精神医学と脳科学の最前線
《脳神経科学者 / 行動心理学者
寺田 慧》

1.脳の病気

精神疾患は我々人類の健康や経済を大きく損なわせる。現代社会において、四人に一人が一生のうちに何らかの精神疾患もしくは神経変性疾患に罹ると言われており、WHOによれば、全世界でうつ病患者は三億人、統合失調症患者は二千万人以上に上るとされる。日本国内に関しても「精神疾患」は「がん」「脳卒中」「急性心筋梗塞」「糖尿病」と並んで、日本の五大疾患の一つと数えられるようになった。もはや、精神疾患は世界規模の社会問題であり、その対策や研究は世界全体の急務といっても過言ではない。精神疾患とは、つまり脳という臓器の病気である。それにも関わらず脳科学が長年その治療法開発や病態理解に貢献することはなかった。なぜなら、現状の国際的診断基準や治療方針でも、十分に治療成果が挙げられるという認識が未だに根強かったからだ。確かに、これらは全く手を付けることさえできなかった精神疾患に対して、一定の共通指標に基づいた診断と治療を罹患者に提供し、ある程度の社会復帰を可能にした点において非常に価値がある。しかし、精神疾患が脳病変によるものにも関わらず、診断には全くそれらを考慮しないのはやはり無理があると言わざるをえない。

例えば、統合失調症は多様な遺伝子変異や環境要因によって生じる症候群であり、同じ症状を示したとしてもその由来となる遺伝子や脳病変が異なる可能性が高い。しかし、現在の基準では、全て同じ〝統合失調症〟として診断されることになる。極端な話をすると、どのような影響が脳に出ており、それにはどのような作用の薬が有効かという考察はなされず、対症療法的に薬が症状を緩和したかどうかで治療が終始進められることになりかねない。こうした現状を危惧する傾向は米国内で強くなっており、脳科学研究の発展もあって精神疾患の生物学的な原因を探る研究は新たな時代を向かえつつある。

2.遺伝子組み換え動物を用いた精神疾患研究

近年、罹患者から同定された原因・感受性遺伝子を持った動物や遺伝子欠損を再現した動物が作成されたことで、それらの遺伝子特徴が脳にどのような影響を与えるのかを詳細に研究できるようになってきた。

例えば、22q11 欠失という統合失調症のリスクを何倍にも高める染色体異常を再現したモデルマウスがある。このマウスは、統合失調症患者で観察されるプレパルス抑制や認知記憶機能障害などの症状を示すことから非常に妥当性の高いモデル動物として知られる。22q11 欠失マウスの脳を調べたところ、マウスの記憶機能障害はどうやら脳波の同期性異常に由来することが分かった。次に、この脳波異常を示した脳部位の神経細胞において発達異常が見いだされ、これらの細胞は成長発達に必要な酵素を異常分泌していることも明らかになった。そして、モデルマウスの幼少期からこの酵素の異常分泌を抑える薬を投与したところ、脳波の同期性異常が改善され、認知記憶機能も健常なマウスのレベルに戻ることが報告された。

このように、モデル動物を用いることで、症状と脳内の細胞レベルの変化の関係を発見し、新たな治療標的を示唆することができた。もちろん、精神疾患は何百もの遺伝子多型や変異の組み合わせに環境因子も重なって発症に至るため、これら全てを正確に再現したモデル動物は現在でも存在しない。しかし、上記のような知見は、より正確なモデル動物の作成にも繋がり、さらに詳細な研究へと発展していく。こうした蓄積は遺伝子変異による脳病変と症状の関係を一つ一つ明らかにしていき、精神疾患の病態メカニズムの解明に大きく貢献するだろう。

3.再生医療としての精神・神経変性疾患治療

試験管内でヒトの脳を作ることができるとしたら、精神疾患研究においてどのような意味があるだろうか。現在の精神疾患治療は、薬物療法と心理療法を組み合わせて行うのが主流であり、早期治療、つまり脳へのダメージが少しでも小さい段階から治療を開始することが重要である。症状の進行によって死んでしまった神経細胞自体を〝治す〟ことはできないからだ。

近年新たに注目されているのが、神経細胞に分化させた多能性幹細胞(iPS細胞・ES細胞)を用いた精神疾患研究である。これは主に、罹患者由来のiPS/ES神経細胞を利用した創薬標的の同定や薬効の検査を目指した試みを意味する。しかしそれだけにとどまらず、これらを脳内に移植することで病変した脳組織を修復しようという試みも米国を筆頭に世界中で始まっている。

脳の病変が視認されたものを特に神経変性疾患と呼び、例えば、パーキンソン病は黒質と呼ばれる脳部位内の、ドパミンという物質を生成する神経細胞が変性・病死していくことによる運動機能障害である。これらの症状は、薬物治療によって不足するドパミンを補うことで一定の緩和が見込まれるが、現在でも根本的に治療することはできない。

2017 年、京都大学のiPS細胞研究所のCiRAの高橋淳教授の研究チームは、パーキンソン病モデル動物(カニクイザル)の黒質にヒトiPS細胞から誘導したドパミン細胞を移植することで症状が緩和したことを報告した。移植細胞の脳内での様子はMRIやPET画像を用いて長期間にわたり観察され、少なくとも移植後二年間は腫瘍化することなく正着し正常に機能することも確認されている。こうした試みは、多能性幹細胞移植によって死んでしまった神経細胞を新たなに代替することで変質した脳部位を修復できるのではないかと期待される。

4.最後に

精神疾患の病態メカニズムの解明とその根本的治療には、ヒト由来の試料と疾患モデル動物を用いた研究それぞれを併せて行っていくことが不可欠である。上記のように動物モデルは、遺伝子、脳、症状、これらの網羅的関係を検討するのに非常に強力であるが、ヒト以外の動物に精神疾患はあるのかという批判は精神医学界でも未だに存在する。そうしたギャップを埋めるためにも、罹患者由来の多能性幹細胞を用いた疾患モデル研究は必要である。一方で、これらのモデルはあくまで培養皿で育てられた細胞群であり、これらの発達過程が生体内での過程と同じであるはずはなく、これだけでも精神疾患の病態メカニズムを紐解くことは不可能だろう。肝要なのは、それぞれのアプローチがどのような疾患の側面を再現しているのかを精査して、互いの知見を照らし合わせていくことである。

抗精神病薬や抗うつ薬は大きな医薬品市場となっているが、その新薬開発は停滞している。精神疾患の病態メカニズム、すなはち、脳内にどのような異変が起きているのか分からないため、創薬標的どころか正確なスクリーニングすら難しいからである。このことが、新薬開発を既存の医薬品の焼き直しに留めてしまい、薬効の革新的な向上を困難にしている。現在では、米国の大手製薬会社さえも新薬開発から撤退を発表するケースも少なくない。上記の研究がこうした状況を打開して革新的な新薬開発や、新たなアプローチから根本的治療開発への光明となることを期待している。

「参考文献」
動物モデル
文献1:doi:10.1038/nature08855 文献2:https://doi.org/10.1016/j.neuron.2015.04.003 文献3:https://doi.org/10.1016/j.neuron.2016.01.025
再生医療
文献1:https://doi.org/10.1016/j.stemcr.2014.01.013
文献2:doi:10.1038/nature23664
文献3:https://doi.org/10.1016/j.neuron.2018.10.033
文献4:https://doi.org/10.1016/j.cell.2016.04.032

執 筆:寺田 慧  Satoshi Terada

Attila Losonczy Laboratory
the Mortimer Zuckerman Mind Brain and Behavior Institute at Columbia University

Postdoctoral Fellow

脳神経科学者、行動心理学者。1988年福岡県生まれ。福岡大学人文学部教育臨床心理学学科卒、京都大学文学研究科心理学専修修士終了後、同大学博士課程中、理化学研究所脳神経科学研究センターに出向する。2016年に博士号取得後(京都大学心理学専修)、同研究所にて研究員として働く。2018 年より渡米、コロンビア大学神経科学研究科(the Mortimer Zuckerman Mind and Brain and Behavior Institute)にて、統合失調症や心的外傷後ストレス障害(PTSD)における記憶および認知障害の脳内メカニズムとその治療法開発に関する研究を行っている。専門技術は、特殊電極を用いた大規模細胞外記録法、二光子顕微鏡を用いた生体マウス脳イメージング法、光遺伝学による細胞活動の操作手法など。

 

《企業概況ニュース 2019 新年特別号掲載》