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【茶の湯入門 さあさ一服】④ 茶の湯の歴史

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みなさま、令和を迎えて初めての新春、こころよりお祝いを申し上げます。

 さて前回までの連載で、鎌倉前期から始まった茶の湯が安土桃山時代、千利休により大成を見るまでの400年の流れを3回にわたりご紹介しました。

 生前利休には千人を越す弟子がいたとも言われますが、その中には大名など身分の高い武将たちも数多く含まれていました。と称される利休の高弟7名も全員が武将茶人です。戦乱の世、武士の心のよりどころとして、また、深い心の交流を育むものとして茶の湯は武家社会に広く浸透しました。一見、武士と茶という両極にも感じられる存在が戦乱によって強く結びついたのです。

 この武家社会の茶は江戸時代に入り、さらに形式が整えられ、利休らの「町人茶」に対して「武家茶」と呼ばれる独自の様式を確立します。その立役者となったのが、利休亡き後、天下一の茶人と称された古田織部でした。利休七哲にも名を連ね、戦国時代から江戸初期にかけ活躍した大名茶人です。織部は利休が求めた静中の美とは対象的に、武家らしい動中に美を見出します。それは、戦乱の世が終わり、利休が築いた侘び茶に対し、より開放的で自由な茶の世界を求める武家の機運に見事に答えるものでした。

 江戸時代に入り、織部は二代将軍徳川秀忠の茶の指南役となり、秀忠とともに「」と呼ばれる茶を用いた武家の儀礼様式を築き上げます。御成とは、将軍または時の権力者が家臣などの邸へ訪れることをさします。室町以降、武家では御成の際には式三献の儀と宴からなる公式行事「式正の御成」を行うことが習わしとなりました。織部はこの式正の御成の中核に、数寄屋での茶事を盛り込む変革を行ったのです。これにより、茶の湯は武家にとって公的なものとなり、単なる嗜みを超え、必須の教養となりました。

 また織部は、その舞台となる数寄屋(茶室)そして茶道具にも変革を加えます。数寄屋は、利休好みの窓がほとんどない二畳の茶室とは対照的に、多数の窓を備える三畳台目とし、明るく開放的な空間に改められました。これは織部格とよばれ、武家茶における数寄屋の基本形に位置づけられます。さらにこの茶室には通いと呼ばれる一畳間の空間が付随しており、主君に同行し来邸したお伴の従者が控えておくための場が設けられました。まさに武家社会ならではという創意でしょう。

 明るくなった空間では使われている道具も引き立ち自然と興味が湧くものです。織部は、織部焼と呼ばれる濃い深緑色の釉薬を用いて、抽象的な絵付けをほどこした焼き物を考案します。その形は対称性が大きく崩れ、それまでに類を見ない大胆で奇抜なものでした。

 織部の動的で創意あふれる茶はその後、小堀遠州や上田宗箇、片桐石州ら武将たちに引き継がれます。広島に家元をおく上田宗箇流和風堂には現在も全国で唯一、式正の数寄屋御成を行える空間が存在します。茶事、宴、観能などを行うために設えられた数寄屋、鎖の間、書院を繋ぐ壮大な空間からは、武将の茶にかける強烈なプライドが感じられます。

 戦乱の世で先鋭化された茶の湯の「精神性」、その影に埋没した「儀礼性」そして「遊戯性」が織部によりみごとに蘇ったのです。

長野佳嗣
茶道家・現代美術家
武道茶道上田宗箇流正教授者
info@y-nagao.jp
https://www.y-nagano.jp

 《企業概況ニュース》2020年 1月号掲載 
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