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私的日米通商史 (17)

今年初めの報道に、二〇一四年のニューヨーク市の殺人数は三百二十八件、これは一九六三年ニューヨーク市警が記録を取り始めて以来最低というのがあった。殺人数が最高になったのは一九九〇年とある。

それで思い出したのは、二〇一〇年、ニューヨーク市博物館で買ったAmerica’s Mayor という本である。ここで「アメリカの市長」というのは、ぼくが一九六八年ニューヨークに来たときに市長だったジョン・リンジーのことだ。この本をちらちら読んで昔をさまざまに思い出す中で、少し驚いたのは最後の方のグラフが示すリンジー任期中のこの都市の犯罪数の急増だった。

リンジーは一九六六年に市長に就任し一九七三年まで務めたが、殺人数は一九六四年の六百三十一件から一九七四年の一千五百五十四件へと、十年間に二倍半に急増したとある。別の統計を見ると、ニューヨーク市の殺人数が最大になった一九九〇年は、殺された人が実に二千二百四十五人に達した。

確かに、ぼくがここに来たころは「ニューヨークは危険な都市」という感じが強まっていた。友人のアパートに行くと、ドアの鍵が三重、四重になっている。普通に考える鍵の他に、もう一つ、時には二つの鍵がある。鍵を開けると、その後ろに鎖がかけてある。それは、訪問者を確かめようとドアを開いたとたん押し入られるのを防ぐためだ。

この鎖云々では、ぼくはちょっと恥ずかしい思いをしたことがあるが、それは将来にまわすとして、鎖の他に、さらに念入りに鉄棒でドアの支えをしたものもあった。アパートの入り口から二三尺離れた床に、鉄のつっかい棒を留める穴を作ってある。
ぼくはドアに余分の鍵をとりつけることはしなかったし、どうやったらいいのか分からなかった。しかし、ちと誇張すれば「路上強奪」にあったことはある。

ニューヨークに来てから一年あまりの間に一時期コロンビア大学のアジア図書館に通った。アメリカに招いてくれた夫妻に、いわば食客として負ぶさり、することがなかったためだが、図書館ではぼくを留学生の一人と思ったのか、自由な出入りを認めてくれた。

ある夕方、その帰りにモーニングサイド公園を歩いていると、ティーンと思しき二人の男子が両脇にすっと寄ってきてゼニを出せ、という。臆病なぼくは忽ち喉がからからになって上着の内ポケットから財布を取り出したが、一ドルしか入っていなかった。二人は、幸い、それを取って退散してくれた。

当時まだ健在だった Life 誌が、crime number と表紙に書いてあるので、京都のぼくの詩の師匠 Lindley Williams Hubbell 先生に手紙を書いて、これはどういう意味ですか、と尋ねたこともある。

『アメリカの市長』のグラフは殺人の他の犯罪の増加も示す。それによると、リンジー政権の前後を含む十年間に、強姦は三倍半、強盗はほぼ九倍、「加重暴行」は二倍半に増えた。

ぼくはそんな数字は全く記憶になかったが、そう聞いて、リンジー市長がどんな間違った政策をとったのかと問うかもしれない。しかし、犯罪の増加はアメリカ全体の現象だった。

すなわち、一九六四年から一九七四年までの十年間に、全国の殺人数は二・二倍、強姦は二倍半、強盗は三倍半、「加重暴行」は二・三倍に増えた。こうしてみると、ニューヨーク市が図抜けていたのは強盗の数だけになる。

ニューヨーク市の、ひいてはアメリカの犯罪数の増大の原因は多く、簡単に因果関係をつけるのは困難であろうが、一つ、ベトナム戦争をあげることはできるかもしれない。殺人を含む犯罪数が目立って増えだしたのが同戦争の拡大に対応しているからだ。そして、京都の学生時代、またニューヨーク到来から居候としての一年間、高まるベトナム反戦運動にほとんど関心がなかったぼくは、ジェトロに雇われて独立し、「社会人」になると、俄然、同戦争と反戦運動が毎日の関心事となった。

理由の一つは、リンジー市長が熱烈なベトナム戦争反対者だったため、ニューヨーク市が反戦運動の中心地の一つとなり、戦争支持者との衝突の場となったことがある。戦争支持者を hard hats と呼ぶようになったのは建設労働者のヘルメットにちなんでいるが、これは、一九七〇年五月、建設労働者の一団が反戦デモの一団を攻撃したことによる。

リンジー市長は、アメリカ社会が激変する時に、ワスプでありながら黒人を積極的に社会の一員として組み込みために尽力した。失政もあったようだが、ニューヨーク市博物館が同市長を讃えるため『アメリカの市長』と題する記念展示を行い、同じ題の本をコロンビア大学と作成したのは正しい。このエッセイ集は写真を満載しており、当時の息吹を生き生きと伝えてくれる。