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April 17, 2015

鎌倉シャツ 海外2店舗目はマンハッタンの金融街

メーカーズシャツ鎌倉(Kamakura Shirts)は、海外2店舗目となるショップをニューヨークのロウアーマンハッタンの金融地区にある最高級商業モール「ブルックフィールドプレイス」に10月にオープンする。   同商業施設は絶好のロケーションと、エルメスやフェラガモ、バーバリーなどの一流ブランド、約40店舗が出店予定。同店は、ブルックフィールドプレイスの商業施設内2階、モールのシンボルである公共スペース「ウィンターガーデン」に面し、サックス・フィフス・アベニューの向かいに位置するという好条件を備えた区間に出店することが決まった。 さらに、新ワールドトレードセンターに隣接していることもあり、今後、ビジネス、レジデンス、観光の中心的なエリアとして世界中からますます注目される。 会長の貞末良雄氏は、「米国で受け入れただけでなく、この地に招聘されたことは我々の会社の哲学が認められ、高く評価されたこと。日本製品と日本人が西欧社会の中で堂々と張り合い競争できることを証明したことになります」と語った。      

Mr. Japanese(ミスター・ジャパニーズ) 石井ゆかり 副社長

Mr. Japanese(ミスター・ジャパニーズ) 石井ゆかり 副社長 www.mrjapanese.com   独自データベースで、最適な人材マッチングを実現 世界最大級の人材紹介会社「マネージメント・リクルーターズ」と、20年に渡るフランチャイズ契約を交わしたのが1992年。自らの強みを打ち出すために、日系企業への人材紹介・派遣業に特化する「マネージメント・リクルーターズ・ジャパニーズ」をスタートさせた。全世界1,300社のチェーン店の中で、常にトップ50社としての実績を誇り、20年の契約満了により今年1月同グループを脱退した。社名をユナイテッド・リクルーターズと改名し、その日系部門「ミスター・ジャパニーズ」の担当として『人材は人財』をモットーに、ビジネスを展開する。 テネシー州マーフリスボローに本拠地を置くことから、中西部・南部での事業を強みとしているが、同社の業務は全米に広がる。人材業界は、景気に直結しており、景気が良い時はいいが、不景気にはその影響をまともに受けてしまう。「このボリュームコントロールが難しいんです」。しかし、同社がもうひとつの強みとするのは独自開発のデータベースだ。チェーン店のネットワークを駆使して20年以上に亘って築き上げた情報は膨大で、データーベースには五千万人以上の履歴書が収められている。そして独自のプログラミング開発により、いかなる職種に於いても、求められる優秀な人材を迅速に絞り込むシステムを持つ。「リクルーターは凄腕のお見合いおばさんなんです。この豊富なデータベースをフル活用して、最適なマッチングを見つけ出しますよ」と、石井さんは目を輝かせる。 これまでも、アラバマ州で不動産をはじめ、様々なビジネスに挑んできた。しかし、25年前の南部には人種差別が根強く残り、石井さんも度重なる差別や迫害に悩まされ続けたという。その結果、最後は逃げるようにその街を離れ、日産自動車が本社を構えるテネシー州へと拠点を移した。そこで日系企業で働くアメリカ市民の日本人への対応やその暖かさに驚き、そして涙が出た。その時この地で、日本とアメリカの橋渡しになる事業を始めようと決意した。 20年に亘り中部テネシー日本語補習校の教頭も務めている。「中学生だった教え子達が立派なバイリンガルの人材に育ち、就職活動を手伝う事はとても楽しいですよ。最近は教え子達が駐在員として赴任し、クライアントとして人材紹介の依頼をくれるようにもなりました。嬉しいですが、自分の歳を感じちゃいますね。」と石井さんは笑う。 ジャパン・アメリカン・ソサエティのボードメンバーとしても幅広く活躍する石井さん。日米の橋渡しとして、桜祭の桜の植樹などに力を注ぐ。最近では、ナッシュビル姉妹都市のコミッティーメンバーとして、ナッシュビルと鎌倉市の姉妹都市実現に向けて奔走、提携することが決定している。 個人的には、ご主人がテネシー大学の最初の交換留学生だったこともあり、ご主人と共にテネシー大学で基金を設立し、この十年間で毎年十名前後のアメリカ人学生の海外留学をサポートしている。またテネシー州の日本語スピーチコンテストのスポンサーとしても、日本語を修得する学生達を支援している。 今後も益々ビジネスを拡張し、ジャパンチームを増強する予定だ。そしてビジネスを託す人材を育てる時期にも差し掛かっていると石井さんは言う。一朝一夕にはどうにもならないことなので、少しずつ進めていきたいと考えている。

園田明淑先生  ハーツデール診療所

      ―――産婦人科医として50年のキャリア        ここまで続けられたのは良き理解者のおかげ             園田明淑先生 ハーツデール診療所 産婦人科医として50年以上の経歴を持ち、また現在も日本人学校とフレンチ・アメリカンスクールで構成されているリセ・ケネディの理事長を務める園田明淑産婦人科医。これまでのキャリアを振り返り、長く続けられた原動力とは何か。また、現在起こっている様々な問題などについて、貴重なお話しを伺った。 「働いていることは自分にとって最高に嬉しいこと」―――― 産婦人科医を目指し、韓国から1958年度に渡米。1963年度にニューオリンズのTulane医科大学を卒業したのち、ブルックリン・ハイツで1969年にアメリカン・ボード・サーティファイ専門医として産婦人科医を開業した。97年の時点で自らの手で取り上げた赤ちゃんは1万人を超え、産科から遠ざかって2年になる現在の総数は把握できないほど。 「女性という立場であるからこそ、女性のカラダを理解することができる。二人の生命を同時に扱うのは産婦人科だけ。こんな素晴らしい仕事は他にありません」と園田先生。 人間の体のすべてに知識がないとできない産婦人科。「医者の中でもとりわけきつい労働が強いられる産婦人科医になって、周囲からよくやっているねって言われます。でも私は生まれ変わってもまた産婦人科医をやりたいですね」。と仕事に対する誇りと50年以上のキャリアを積み上げてきたゆえのずっしりと重みのある言葉だ。 今まで振り返り、一番辛かったことは『子供たちを旅行へ連れて行けなかった』こと。そんなひたむきに仕事に打ち込んできた母親の姿を見てきた息子さんは現在、婦人科系のガンの専門医で世界を舞台に活躍している。 「主人の理解がなかったら続けることはできなかった」―――常に24時間体制で昼も夜も関係なく仕事場から呼び出される仕事。母親として妻として、そして医師として走る続けることは大変なことだ。女性の産婦人科医は独身だったり、離婚経験者が多いという。やはり家庭を両立していくことが困難なこと、そしてそれを理解してくれるパートナーがなかなかいないという厳しい現実がある。 「産婦人科医が少ないという日本の現状は働ける環境が整っていないからです。米国はデイケアも充実していますし、現在の産婦人科系の病院は、何人かの医者が集まってグループで開業します。そうすることによって、シフト体制が可能になりフレキシブルになる。米国はこの様な病院が増えたことで女性の医師は普通の家庭を持てるし、ぐんと数も増えました」と日本と米国の産婦人科医の違いを語った。 また、「日本の経済が良くなった理由は戦後の日本が信用できるものづくりを続けてきた結果」と断言する。日本製が減少している今の世の中について、日本人が“よいもの”作るためには人手が足りなければならない。そして人手を足らすためには人口が増えなければならない。つまり女性が子供を産める環境づくりをしていかなければならないんです」と園田先生は苦言を呈する。 園田先生のご主人である園田幸司名誉教授は、リセ・ケネディの創立者でもあり、日本語教育界の第一人者として知られる。同校は2005年に他界した際に園田先生に遺してくれた。現在は理事長としての業務をこなしながら、週2日は婦人科医として働く。日曜日しか休暇日がないという多忙な日々を送る園田先生のバイタリティは計り知れない。「頭と体が動くまで働き続けたい」とこれからの仕事に対するさらなる熱意を語ってくれた。  ...
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